荀彧を”我が子房”といった本当の理由は?【○○中の荀彧に曹操が親しみとシンパシーを感じた】から|美郁の考察
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2010年8月8日日曜日
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橘花みいく三国志☆【考察】曹操が荀彧様を我が子房と言った本当の理由
曹操と初めて面談した際、
荀彧を評して「我が子房」といった話は有名ですね。
(子房は前漢・劉邦の参謀・張良のこと)
【前漢の張良とは?】→工事中
ただ訪ねてきた若者をいきなり前漢の功臣になぞらえるのは少々ムチャ振り過ぎる気がします。(笑)
てか曹操自身、今でこそ黄巾を平らげ、東郡太守に任ぜられようやく枕高くしてスヤァ〜できるようになったけど、去年はボコられて散々だったのに。董卓討伐連合軍は利権争いでイラつき、若き曹操は単独で突っ走って敗走。。。
深読みすれば、袁紹も全然盟主らしいらしいことしないまま解散させちゃって、曹操よ東軍太守に推薦してあげるからごめんして?というところでしょうか。。。
そんな曹操が、いつもの「俺様テンション」なのかなぁと?
少しずつ自信も回復しつつあるものの、プライドズタズタまだ敗戦の痛手が残るところ。
雄飛の時を待っていたのではないでしょうか。
荀彧を”我が子房”といった本当の理由は、【董卓暗殺に失敗し再起をはかっていた荀彧に、曹操が同じ匂いを感じた】から
荀彧を子房といった本当の理由は、【董卓暗殺に失敗し、再起をはかっていた荀彧に曹操が親しみとシンパシーを感じた】からではないかと思います。
当時、董卓の暴政に対抗する者も多く、暗殺を考える者は多かったようです。
曹操もそのひとりですね。
曹操だけでなく、何顒(かぎょう)、荀攸など荀彧の親類知人も董卓暗殺に加担しているので
荀彧だけ全く知らされてないということはないでしょう。
社会的な恨みと、自分の身近な大切な人を手にかけられたこと、
荀彧が何も感じないはずはありませんからね。
張良の事績を紐解くと、
祖国を滅ぼした秦の始皇帝の暗殺を企て、
同士とともに博狼沙という土地で巡幸中の始皇帝を狙撃したとあります。
また容姿は女性のようだったともいわれています。
曹操からすれば、
清流派の名士がうちに面接にきたぞ、と警戒もしたでしょうが、見ればなかなか端正な顔立ちだし、博識だし、何より君も董卓暗殺しようとしたのかという共感ポイントが、二人の距離感をぐっと縮めたのかもしれません。
荀彧と曹操には共通の友人が複数いたため、
お互いにそれとなく興味があったし、互いの動向も知っていただろうなと今は推察しています。
話に聞いていた荀彧が自分を訪ねてきてくれた、
しかもお尋ね者仲間じゃん!!
(名家のネットワークで厳しく箝口令が敷かれていたでしょうけど)
聞いてた通りたおやかな美貌、、、
君は現代の張良だな、、、
俺の嫁、いや
俺の張良キターーーーーーーーーーーー!!
雄飛の時を待っていた曹操にとっては救いの神に見えたことでしょう。
「そうか、そうか、君も董卓を暗殺しようとしたのか…
面白いやつだな君は…顔立ちもたおやかだし、まるで古の張子房みたいだね」
といったのが、はしょられて今に伝わってしまったのかも知れませんね♪(^0^)
案外、がっつり董卓暗殺計画に関わっていたけども
周りの年上たち何顒や荀攸に、お前に俺らの未来を託すぜ☆と逃がされた?可能性もありますね、、、
何顒兄さん、本業逃し屋だし、、、!
何この胸アツ展開!!!
ここは要☆アニメ化ですね!
董卓の時代に失ったものは?文学や教育に力を入れた曹魏王朝、その源泉はこの頃からかも
素晴らしいブレーンが来てくれたくれたと言いたいなら他も言葉でもよかったはずです。
”我が太公望”とかなんとでも。
”我が子房”という言葉から色々深読みできますよね。
荀彧が三公より尚書台勤務にこだわるのも
董卓の時代に失ったものに強いこだわりがあったからかもしれないですね。
文学や教育に力を入れた曹魏王朝、その源泉はこの頃からかもしれません。
※この辺は私がアニメ化するときの伏線部分になるのでまた次回☆
ただ、当時の格式?的に
清流派の人間と宦官家の人間が共闘するというのが
世間的にみとめられていない時代。
荀彧様もずいぶん思い切ったことしたなあ。
それほどまでに荀彧の中で社会的怒りと個人的な恨みがピークに高まっていたんでしょうね。
この辺もアニメ化したいところです❤️